| MM: | 後藤俊夫先生のご紹介により、本日はお忙しい所取材のご対応を頂まして誠にありがとうございます。 まず初めに高野先生のプロフィールをお聞かせ願います。 医者をめざしたきっかけをお聞かせください。 |
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| Dr.高野: | 私の親父が開業医というのもありましたが、私の高校時代の頃はシュバイツァーなどが尊敬される時代で医師という職業自体に憧れがありました。ただ凄い理想があったというわけではなく漠然として憧れであった医師になったというのが本当のところだと思います。 | |||
| MM: | 大学時代はどのような生活でしたか? | |||
| Dr.高野: | 私の大学時代は、学生運動が活発な時代で非常に混迷した大学生活のため2年間留年し卒業をしました。 卒業後は小児科に入局し1年間大学病院で、その後茨城県立中央病院で3年間、その後は2年間大学病院で働きました。そして国立小児病院で7年間小児の心臓病を診ていました。 |
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| MM: | そもそも高野先生が小児科を目指した理由はどのようなものでしょうか? | |||
| Dr.高野: | 小児科を目指したのは、他の科と違い消化器から循環器から呼吸器から全体が診れるというところに興味を持ったためですかね。 | |||
| MM: | 実際に小児科医として働いていた頃はどうでしたか? 小児科というと他科にくらべかなりキツイ科というイメージが強いと思いますが・・・。 |
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| Dr.高野: | そうですね、自分がバリバリと働いていた頃は何も思いませんでしたが、一旦小児科という仕事から離れてみるとあの頃は精神的にも肉体的にも非常にきつかったのだなと実感できますね。 ただ、やりがいという意味では凄いありますね。 小さなお子さんですと、どんな状態になったとしても何とか助けてやりたいという気持ちが強くありました。 また、私のような怠け者でもお子さん・お母さんの顔を見ると背中を押されるような感じで無我夢中に働いていました。 |
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| MM: | 小児医療を第一線で担ってきた高野先生から見て、小児医療はどのような変化をしてきたと思いますか? | |||
| Dr.高野: | やはり亡くなる患者さんが減ってきたというところですかね。極めて少なくなりましたね。 私が医師として働き始めた頃は、レスピレーターがやっと導入されてきた時代で、未熟児を呼吸管理すると皆死んでいった時代でした。だから、呼吸器をいかにつけないようにするかというのが命題でした。 800gくらいの未熟児であればなんとか助けることができましたが、それ以下となると難しい時代でした。 国立小児病院(現国立成育医療センター)で働き始めた頃は、全国から小児の難病患者が集まってきて毎日のように亡くなっていくわけですが、私が国立小児病院を辞める頃にはかなりの確率で小児の難病患者も助かるようになってきました。この時期(昭和50年代)が小児医療そのものが変わってきた時期だと思います。 |
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| MM: | 現在は小児科の先生方は患者さんやご家族との付き合い方に非常にナーバスなところも感じているとは思いますが、当時難病のお子さんたちやお母さんたちとはどのように接していたのですか? | |||
| Dr.高野: | 今は分かりませんが、当時お母さんたちは医者に無理なことは要求しませんでしたね。 ただ何かあったときは逃げずにしっかりと向き合うようにしていました。ミスを誤魔化さないようにし、できないことはできないと言うようにしていました。 とにかくまじめにお母さん方と接していれば、だいたい医師・医療のことを理解してくれましたね。 なにより、難病を持ったお母さん方のほうが私たち医師よりも強かったですし、いろんな意味で我々をカバーしてくれましたね。 20年以上前ですが、難病のお子さんたちを海水浴やスキーや温泉に連れて行った頃のことを思い出します。 お風呂ではお子さんにパンツをはかせていたりしましたね。 |
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| MM: | 小児科を離れて内科(老人医療)を始めたのはどういったきっかけからなのでしょうか? | |||
| Dr.高野: | 私が38歳頃のことですが、親父がパーキンソンで大和徳洲会病院に入院して人工呼吸をつけて、もう親父も終わりだなと思いました。親父が大和徳洲会病院でお世話になっていたので、もし親父が助かったら徳洲会に入って骨を埋めてもいいと思ったのです。 親父はなんとか助かったのですが、人工呼吸から脱するのに1週間かかりました。 その後リハビリをしてちょうど正月だったのですが、家でお風呂を入れてあげたりなどして何とか立てるところまで回復しました。ただ、親父ひとりの介護を自分・母親・兄夫婦・孫たちの6~7人でしたが、たった一人の大人でもなんと介護が大変なものなのかと感じました。 それで、小児科を辞めて内科(老人医療)をやろうと決心しました。で、内科を始めたわけですが、最初は小児科とは勝手が違ったのでかなり苦労しました。あと、小児科しかしていなかったので、いざ大人を診るとなると凄い怖かったですね。自分よりも年上で、いろいろと経験のある人たちを診るということに戸惑いがありました。 最初都会の病院で内科をやりはじめたのですが、つい他の内科医がいると「自分は小児科医ですので」といってそのドクターに任せてばっかりいてしまいました。これではイカンと思い、離島であれば自分で診るしかない状態になると思って、ちょうど徳洲会のこともあり離島に行って内科をしていました。 |
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| MM: | 思い切った決断をされたと思いますが、離島で医療をされての感想をお聞かせください。 | |||
| Dr.高野: | 足掛け4年離島で医療をしていたのですが、離島医療で思ったことは、自分ができること・できないことを見極めるということだと思います。 ちょうど徳洲会だったので、自分ができないことは他のドクターを呼ぶことができたのも大きかったですね。 実際に内視鏡検査では、後藤俊夫先生が来てくれて島民1700人のうち800人の大腸内視鏡をしてくれましたよ(笑)。 |
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| MM: | 後藤先生もやはり凄い方ですね! さてお話は変わりますが、高野先生には政治にかかわっているという一面もございますが、医療・介護関連に関するご意見がございましたら是非お聞かせください。 |
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| Dr.高野: | 先月(2007年10月24日)ですが、都内で民主党主催の映画鑑賞会に行ってきました。そこでマイケル・ムーア監督の「シッコ」が上映され、小沢さんとか山田さんとかいて総勢500人くらいの観客でしたが大フィーバーでしたね。 私が思うに医療費に関しては、GDPの10%くらいまで引き上げる必要があると思います。現在は、今までの医療費をどんどんと削減しているわけですが、これは行き過ぎでこれからは修正をかけていかなくてはいけないでしょう。 国の方針として医療費削減を緩めていく必要があります。 介護に関しては、介護保険のほぼ前面的な見直しを必要とするでしょう。 民主党の山田先生と話すと介護保険をなくそうという話が出てきます。というのも私は介護保険は破綻したと考えられます。介護保険の見直し、これをやらないと地域の破綻をもたらしますよ。 |
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| MM: | 地域の破綻をもたらさないようにするにはどうしたらいいでしょうか? | |||
| Dr.高野: | 若い人たちは田舎から都会に移り田舎は老人ばかりになってしまい、また老人も都会に移った若い人たちのところに呼ばれて都会に移住するということが起こっています。 しかし、田舎の地域に老人が帰ってきてもらうとそれだけで地域の負担になってしまうため、いざ都会から田舎に老人が帰ろうということになると田舎に帰れなくなってしまうという現実があり、悪循環が起こっています。 これを解決するにはやはり若い人たちが田舎に戻り地域を活性化しひとつのコミュニティーを築いていく必要があると思います。 |
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| MM: | 現在、医師(勤務医)の数が足りないという話題が尽きませんが。 | |||
| Dr.高野: | 我々団塊の世代が亡くなると、日本人の人口も減り医療の需要も極めて減少すると思います。 それを考えると医者を増やすのはどうかと思っていたのですが、これだけ混乱してしまいますと、増やすしかないんでしょうね。そうすると今後は、医師の数が増えることで医師の年収も減り、医者がいい目をみることは減っていくかもしれませんね。 そうなるとあとは競争で、いろんなアイデアを持った人が勝ち残っていくでしょうね。 医者という資格だけで生きていけるという時代がなくなるかもしれません。 |
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| MM: | 本日はいろいろと興味深いお話ありがとうございました。 これからも先生のご活躍をかげながら応援させていただきます。 |
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